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東京都杉並区の歴史
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所在地 杉並区西荻北2-33-9 (区立西荻図書館周辺)

 城山と七ツ井戸
 城山とは、善福寺川によって形成された急崖な舌状台地上に位置し、現在の西荻北2丁目19・33一帯を指します。城山と言う地名の由来について、荻窪八幡神社の由緒書によれば、「後冷泉天皇の永承6年(1051)に、源頼義が奥州下向の際、この付近に陣し、康平5年(1062)凱旋した時、八幡神社を修め、部将を停めておいおた場所で、後世この一帯が城山の名を有した」と記されています。
 明治中頃までの城山は、杉や松等の密生する雑木林でしかも篠笹が群生しており、人が分け入ることもできないほどにあったと言われています。当時は、善福寺川も台地直下を流れており、川から引かれた水路が城山の下を通っていました。また、七ツ井戸と呼ばれた井戸は、城山の南側に一列に七ツ並んで掘られていたようで、何故か土地の人々からは近付くことも恐れられていました。
 この鬱蒼として雑木林も、の大正11年(1922)の西荻窪駅の開設、昭和2年(1927)の区画整理等の影響によって徐々に失われ、昭和30年代前半までは辛うじて残っていましたが、今ではその面影は全く消え失せ、住宅地や公共施設としての新しい姿を見せています。
 平成3年(1991)3月 杉並区教育委員会

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所在地 杉並区善福寺1-8

 地蔵坂
 この坂道は、別名「御立場坂」「寺分坂」とも呼ばれていますが、一般的には地蔵差kと呼ばれています。名称の由来としては、かって坂の途中に地蔵堂があり、地蔵菩薩や庚申塔、馬頭観音などが祀られていたことにあるようです。
 いつ頃から地蔵坂と呼ばれていたかは不明ですが、舟形を呈した享保17年(1732)銘の地蔵菩薩があるところから、江戸時代中期以降と考えられます。また、地蔵菩薩は北を向いていたところから「北向地蔵」とも呼ばれていたそうです。他には、貞享2年(1685)銘、宝永2年(1705)銘、正徳6年(1716)銘の庚申塔、文政7年(1824)銘の馬頭観音などがありました。
 この馬頭観音には、「東江戸・西ふちう」と彫られており道標の役目をしていたようですが、近代になってからは東多摩郡井荻村、豊島郡石神井村、北多摩郡吉祥寺むらの三郡の境に立てられていたため、「三郡境の馬頭様」と呼ばれていました。
 現在では、観泉寺(今川2丁目18番)に安置されています。
 また、地蔵坂交差点に近い台地の先端部付近は地蔵坂遺跡と呼ばれ、昭和56年(1981)に実施した発掘調査では、旧石器時代(約1万8千年前)のナイフ形石器やスクレーパー(搔器)など多数の石器類と礫群(バーベキューの跡)、縄文時代早期(約8千年前)の土器や石器が多数出土しており、住居址や炉穴(屋外炉)も検出されています。特に、荻窪中学校の校庭から発掘された井草期の住居址は、区内で初めて発見されたもので、考古学的にも大変貴重な資料です。
 平成元年(1989)3月 杉並区教育委員会











所在地 杉並区善福寺2-6-1

 東京女子大学
 東京女子大学は、大正7年(1918)に、キリスト教主義に基づき高い知性と自由な精神をはぐくむ女子高等教育をまっざして創立された。武蔵野の面影を残すこのキャンパスに立つすぐれた歴史的建造■群は、そのような大学にまことにふさわしい。
 校地の中央に位置する本館は、正門と相対する軸線上にある。鉄筋コンクリート造でありながら、深い軒を有し瓦屋根をのせた構成は、武蔵野の日本家屋をイメージしたものといわれる。
 正門脇の礼拝堂(チャペル)と講堂には、鉄筋コンクリートの打ち放しという大胆な手法が用いられている。二つの建物を背中合わせに■み、その接点にエントランス・ホールを設け、その上に高い■屋をそびえ■せるという構成である。礼拝堂は、■■■コンクリートブロックにステンドグラスをはめ込み、ゴシック教会堂に見る■を近代的手法で表現している。
 東京都生活文化局

ホームページ ⇒ http://office.twcu.ac.jp/






所在地 杉並区上荻4-19-2

 荻窪八幡神社
 この神社は旧上荻窪村の鎮守で、今から約1080年前の寛平年間に、応神天皇を祭神として建立されたと伝えられています。
 永承6年(1051)、源頼義が奥州の安倍貞任征伐の途中、ここに宿陣して戦勝を祈願し、のち康平5年(1062)凱旋の時、神恩に感謝して当社を厚く祭ったといわれています。
 また文明9年(1477)4月、江戸城太田道灌は、上杉定正の命をうけ石神井城主豊島泰経を攻めるにあたり、源氏の故事にならってこの神社に武運を祈願しました。この時植えた槇の樹一株が、500年の歳月が経過した今も「道灌槇」と呼ばれ、御神木として大切に保護されています。
 なお、当社には、永仁2年(1294)、嘉慶2年(1388)、応永29年(1422)銘の板碑、その他土器や石器類、社宝の勝海舟の大幟、掛軸などがあります。
 祭日は9月15日です。
 昭和54年(1979)2月1日 杉並区教育委員会












 荻窪八幡神社には『荻窪八幡神社のコウヤマキ(道灌槇)』、『延宝七年銘 石造狛犬』、『板絵着色製茶図』、『彰忠碑・乃木希典揮毫』、『小俣金治先生之像』、『「クリの豊多摩早生」説明板』があります。
所在地 杉並区上荻4-19-2 (荻窪八幡神社)

 「クリの豊多摩早生」説明板
 東京はかつて、クリの大産地でした。
 大正から昭和の初期にかけて、主に北多摩の農村地帯では、雑木林にまじって広大なクリ園が、果てしなく続いていました。
 このクリは、当八幡神社の近くに住む市川喜兵衛(豊多摩郡井荻村荻窪)が明治20年(1887)頃、栽培中の茶園内に自生のクリ苗を発見、偶然早く稔る早生の栗ができた事から、明治41年(1908)、当時の郡名にちなんで「豊多摩早生」と命名しました。
 小粒で収量はあまり多くありませんが、秋まで待たずに、8月中旬から下旬には収穫できるので市場では高値で取り引きされ、全国的にも有名となり各地で栽培されていました。
 特に第2次世界大戦後、クリに大被害を与えた害虫・クリタマバチに強い抵抗性をもっている豊多摩早生は、品種改良の親として用いられ、伊吹(農林省果樹試験場で、銀寄に豊多摩早生を交配)という優良品種を生み出しました。
 平成9年(1997)度JA東京グループ
 農業協同組合合法施行50周年記念事業
 東京中央農業協同組合

    THE AGRICULTURE OF EDO&TOKYO
       Toyotama-Wase,an Early RIpening Chestnut
 Tokyo used to be a big prodction area of chestnut.Especially,in the rural district of Kita-Tama,a great ,many chestnut farms spread extensively throughout the thickets of assorted trees.
 Around 1887,Kihei Ichikawa,a farmer who lived nearby,found by chance an unusually early ripe chestnut tree and named it Toyotama-wase after the name of the county.
 Although the nut is small and not particularly high-yielding,it was traded at higher prices in the market becouse of its early appearance frommid-to late August before the onset of fall.It soon acquired a nation wide high reputation and became a popularly grown variety of chestnut throuhout the country.
所在地 杉並区上荻4-19-2 (荻窪八幡神社)

杉並区指定有形文化財(彫刻)
 延宝七年銘 石造狛犬
     昭和59年(1984)3月31日指定

 本殿内に安置されている一対の狛犬は、高さ約26cm程の小さなもので、前足を立て、後足を折伏せた、いわゆる「犬座姿勢」をとり、頭は楕円形で口が大きく、ユーモラスな顔をしています。
 また、背から脚にかけて「延宝七年九月 八幡宮 荻久保村」と刻まれ、区内では最も古く、都内でも浅草寺 淡島大国堂の狛犬(延宝三年)に次ぐものです。素朴な中にも入念な彫造が施された造形は、江戸初期の作風をうかがわせます。
 杉並区教育委員会




所在地 杉並区上荻4-19-2 (荻窪八幡神社)

 荻窪八幡神社のコウヤマキ(道灌槇)
 関東官領であり、武蔵の領主であった、上杉定政に対し、家臣の長尾景春が武蔵を侵さんとして石神井城主・豊島泰経及びその甥の平塚城主・豊島泰明と款を通じて反逆した。
 之を激怒した上杉定政は江戸城主太田道灌に出陣を命じた。
 道灌は文明9年(1477)4月13日平塚城を攻撃し四囲より火を放った。この急報に豊島泰経は道灌軍の背後を突き、江戸城へ進撃せんとして江古田、沼袋の線で石神井城へ進撃する道灌勢と遭遇し後世「江古田の合戦」と伝えられる戦斗を開いたが豊島軍利あらず、道灌軍は騎虎の勢をもって石神井城に迫った。
 文明9年(1477)4月16日、道灌軍は東及南より石神井城を攻撃するに当って、道灌は当社に詣で戦捷を祈願して軍神祭を行ない、槇樹一株を献植した。
 これが今当社に伝わる道灌槇で、一根二幹であったが昭和9年(1934)の暴風雨で一幹折損し一幹となり、樹齢500年を経た今なお、「千年の社・百尺の高野槇」と称えられている。
 昭和61年(1986)3月、杉並区・天然記念物(植物)に指定された。
 荻窪八幡神社社務所




 荻窪八幡神社のコウヤマキ
  昭和61年(1986)3月31日指定 杉並区指定天然記念物
 当社本殿前のコウヤマキは、幹周囲(目通り)2m、樹高20m、樹齢は300年以上と推定される巨樹です。コウヤマキは日本特産の常緑高木で、天然生育地は限られていますが、日吉社、権現社あるいはこれらに属する系統の社頭には、神木として植栽されることもあります。当社のコウヤマキもこの例と思われ、大t同感が石神井城攻撃に際し戦勝祈願の為献植したとも伝えられています。300年を超える樹齢にもかかわらず樹勢も優れ、都内でも有数なコウヤマキとして貴重なものです。
 杉並区教育委員会


所在地 杉並区上荻4-19-2 (荻窪八幡神社)

 小俣金治先生之像
小俣先生は父祖代〃神職の家に生れ明治35年(1902)小学校に奉職30有余年先生の薫陶を受けし者数千名に及ぶ又荻窪八幡神社神職として50有余年郷土の発展に尽す茲に先生を敬慕し寿像を建て崇高なる人徳を偲び教訓を後世に伝う
 昭和37年(1962)9月吉日 小俣金治先生を讃える会







所在地 杉並区上荻4-19-2 (荻窪八幡神社)

 彰忠碑

 乃木希典揮毫
先年桃井第一小斈校庭に建てられた本碑は大東亜戦争の直後故あつて地中に埋められて居たが今回有志者によって此の地を相し再建して以て永く其の遺芳を偲ばんとするものである。
 昭和参拾壱年(1956)6月
所在地 杉並区上荻4-19-2 (荻窪八幡神社)

 板絵着色製茶図
  平成15年(1940)3月12日指定 杉並区指定有形民族文化財
 この絵馬は、収穫した茶葉を緑茶に加工する製茶の工程と製茶に関わる茶師を描いたもので、「揉み」「仕上げ」「計量」「運搬」の工程を行う計7名の人物が描かれています。
 この絵馬が奉納された明治15年(1882)頃には杉並地域でも製茶が盛んでした。小規模ながらも、人々の生産意欲は強く、この絵馬の奉納は、新しい農産物にかけた農民の心情と厚い信仰心を物語るものといえます。本絵馬は、杉並区の産業資料として、また当時の信仰や風俗を伝えるたいへん貴重な資料です。
 杉並区教育委員会


所在地 杉並区桃井2-4-2

 観泉寺薬師堂(薬王院)



 この薬師堂は、かつては薬師如来像を本尊とする寺で、玉光山薬王院と呼ばれていました。開創は元禄時代以前といわれ、開山は海光和尚と伝えられています。
 薬王院は開山当初より今川氏の保護をうけ、元禄13年(1700)に今川範高から土地を寄進され、享保4年(1719)に至って今川氏の祈願所となりました。ついで延享4年(1747)頃に今川氏の菩提寺である観泉寺の末寺となり、明治維新の際、観泉寺に合併され、以後同寺の境外仏堂として今日に至っています。
 『新編武蔵風土記稿』は、江戸時代の薬王院について「地頭除七段、小名寺分にあり、玉光山と号す、前寺の末、客殿七間に四間半南向、本尊は坐像の薬師にて長さ八寸五分」と記しています。
 明治15年(1882)、境内の一隅に不動明王を祀った不動堂が設けられました。本尊は寄木造りの坐像で、近在の人々は「お不動様」と呼んで信仰し、3年後の明治18年(1885)には信徒によって成田山成開講がつくられました。そして、近年まで行者の道場として栄えていたといわれています。
 また、境内には寛文9年(1669)念仏講中によって奉納された地蔵菩薩、寛政5年(1793)銘の庚申塔などがあります。
 なお、薬師堂には明治8年4月に現在の区立桃井第一小学校の前身である桃園学校第二番分校がおかれ、杉並近代教育の歴史に記念すべき足跡をしるしています。
   昭和57年(1882)2月10日 杉並区











 


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