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東京都杉並区の歴史
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所在地 杉並区永福1-6-6

真宗大谷派
 光栄山 託法寺

 当寺は、光栄山と号する真宗大谷派の寺院です。本尊は、阿弥陀如来立像で像高90センチメートル、寄木作り、彫眼で江戸末期の作と言われます。
 寺伝によれば、開山は浄円で寛永11年(1634)江戸四ッ谷永住町(現新宿区四ッ谷4丁目)に開創しました。浄円は俗姓を本多と称したと伝えられています。開山当時のようすは詳らかではありませんが、江戸期の「御府内沿革図書」の四ッ谷大木戸附近の部を見ますと、東長寺(現存)の説明に嘉永元年(1848)境内の西方を託法寺に貸した旨の記載があります。また、文久2年(1862)の江戸切絵図には、東長寺境内の一部が当寺借地分として区画されています。
 明治13年(1880)の「寺院明細帳」には罹災の為か本堂の記載がなく仮庫裡33坪(約108.9平方メートル)となっています。また神田の町人幸助という人が寄附した6坪(約19.8平方メートル)の門があり、檀家は31戸でした。
 その後、都市計画事業により移転を命ぜられ、大正11年(1922)、現在の地に栖岸院所有地千余坪(約3300平方メートル)を得て移転しました。これは区内浄土真宗移転寺中最も早い移転と言えます。しかし、昭和20年(1945)5月25日に空襲を受け全焼してしまいした。昭和28年(1953)8月、漸く復興を今日にいたっています。
 昭和62年(1987)3月  杉並区教育委員会
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所在地 杉並区永福1-6-8

浄土宗本願寺派
 本光山 善照寺



 当寺は本光山と号する浄土真宗本願寺派の寺院で、本尊は江戸期の作といわれる阿弥陀如来立像です。
 「府内誌残編」によると、相州小田原に開創されましたが、天正18年(1590)7月、豊臣秀吉の小田原城攻略の際に罹災し、堂宇を焼失しました。
 その後、江戸に移り再興されましたg、その場所は詳かではありません。
 慶長年間(1596~1614)より、木挽町(現中央区銀座東辺り)、神田金沢町(現千代田区外神田3丁目)、下谷七軒町(現台東区元浅草1丁目)、新堀端(現港区南麻布2・3丁目)等へ移転し、現在の築地本願寺の前身である浜町御坊(江戸浜町・現中央区東日本橋3丁目)の子院となりました。しかし、ここでもまたいわゆる「振り袖火事」(明暦3年〈1657〉)にあい、浜町御坊とともに焼失しました。 
 万治年中(1658~1660)、八丁堀先の海辺を埋め立てた代地(現中央区築地3丁目)に浜町御坊が移転するのに伴って、当寺もその寺中に移りました。
 大正12年(1923)9月、関東大震災で築地本願寺やその子院とともに全焼し、昭和3年(1928)8月9日、区画整理のため現在地へ移転して来ましたが、昭和20年(1945)5月25日夜、焼夷弾の集中投下により、またしても堂宇ことごとく烏有に帰しました。
 その後、昭和45年(1970)2月本堂を落慶し、ここに伽藍を再興しました。
 平成17年(2005)10月  杉並区教育委員会


所在地 杉並区永福1-6-9

浄土真宗本願寺派
 柳水山 浄見寺



 当寺は、柳水山と号し浄土真宗本願寺派の寺院です。開山は、釋教心で慶長15年(1610)2月、現京都市伏見区深草の智に開創されました。
 その後、元和7年(1621)3月、築地本願寺の前身である江戸浜町御坊が創建されるとこの寺中に移転しました。御坊中門の左手に、間口80間(約32.4メートル)奥行20間(約36メートル)の敷地をもち、寺中28ヶ寺中でもかなりの寺容でした。ところが明暦3年(1657)いわゆる明暦の大火に遭い御坊もろ共焼失してしまいました。そして、築地本願寺が新たに現在の地に建立されるのに伴い、当寺も同寺の西門前に移りました。明暦の大火後は3度も火災に見舞われ、更に大正12年(1923)9月には関東大震災で罹災し、震災後区画整理事業のため昭和3年(1928)8月、現在地に移転しました。昭和20年(1945)5月25日の空襲で焼夷弾を受けて再び全焼しました。現在の本堂は昭和35年(1960)に、庫裡は昭和54年(1979)に完成したものです。
 本尊は阿弥陀如来立像で明和5年(1768)5月10日、西本願寺17世法如上人が当寺に下げ渡したもので、その署判入りの下附状が当寺に保存されています。像高64センチメートル玉眼作りの美しい仏像です。
 なお墓地には、書家・狂歌師として当時有名であった中井董堂(文政4年〈1821〉没)の墓があります。
 平成16年(2004)3月  杉並区教育委員会


所在地 杉並区永福1-6-11

浄土真宗本願寺派
 寂静山 潮音閣 法照寺



 当寺は寂静山潮音閣と号する浄土真宗本願寺派の寺院で、本尊は阿弥陀如来立像です。
 開基は明教(寛永5年〈1628〉9月4日寂)といわれますが詳細は不明です。
 寺伝によれば、当寺は相州鎌倉に開創され、天正18年(1590)武州豊島郡湯島(現文京区本郷)へ移転し、元和7年(1621)浅草浜町(現中央区東日本橋3丁目)に浜町御坊(現築地本願寺)が創立されると、その寺中に移りました。
 明暦3年(1657)いわゆる「振り袖火事」で濱長御坊とともに全焼し、浜町御坊が八丁堀先の海辺を埋め立てた代地(現中央区築地3丁目)に移ると、当寺も寛文年間(1661~1672)その寺中に移りました。
 浜町御坊の時代、本願寺第20代法主・広如上人が当寺に寄られた折、よせる波の音を聞かれて、その記念に「潮音閣」という閣号とそれを認めた掛軸を授けられ、以来「潮音閣」と号し、その掛軸も今に伝えられています。
 大正12年9月、関東大震災により築地本願寺やその子院とともに当寺も全焼し、その後、昭和3年(1928)5月区画整理のため現在地へ移転して来ましたが、昭和20年(1945)5月25日夜、焼夷弾の集中投下により、堂宇ことごとく灰燼に帰しました。
 昭和39年(1964)本堂を新築し、ここに伽藍を再興しました。
 なお当寺の墓地には、荒事を能くした歌舞伎立役の名優、初代市川団蔵(1684~1740)や噺子方で鼓の名手といわれた賓山左衛門(2代目・1835~1910、3代目・1859~1914)などが眠っています。
 平成17年(2005)8月  杉並区教育委員会


所在地 杉並区永福1-6-12

浄土宗
 村高山 栖岸院


 
 当寺は村高山と号する浄土宗の寺で、本寺は京都の知恩院です。 寺伝によれば当寺はもと三河国村高庄(現愛知県安城市)にあった長福寺という浄土真宗の寺で、天正19年(1591)麹町8丁目に寺地を拝領して江戸に移りました。元和7年(1621)老中安藤重信が葬られ、以来同家の菩薩寺となり、寛永16年(1639)には重信の子重長が中興開基となって、父を開基、妙誉秀慧を開山に招へい、浄土宗の寺として改めて開創されたといわれます。現寺名の”栖岸院”(重信の法名に由来)も、この時から用いられたと考えられます。
 江戸時代の当寺は、住職が将軍に単独で拝謁のできる、”独礼の寺格”を許され、安藤家・高木家(丹南藩主)をはじめ多くの旗本諸家の香華寺として市中に知られていました。当時の寺の様子を『江戸名所図会』(天保初年刊)は「当寺に頼朝の念持仏と称する聖観音の霊像と安置す。(龕前に安置する所の観音の像は楠正成尊信の霊像なりといふ。)7月10日は千日参と唱へて参詣頗る多し」と記しています。
 明治維新後は武家の凋落、市街の変化などの影響をうけざるをえず、寺院の発展を図る為、大正9年(1920)現在地に移転しました。 
 観音堂に安置する聖観世音菩薩は、「火伏観音」と呼ばれる鎌倉時代後期作の端正な仏像で、区の指定文化財となっています。
 平成7年(1995)3月  杉並区教育委員会


杉並区指定有形文化財
木造 聖観音菩薩坐像 一躯
     平成2年(1990)11月14日指定

 本像は、像高47cmの小像ですが、眼鼻立ちの整った、たいへん気品のある仏像で、宝冠、胸飾り(瓔珞)をつけた菩薩形をとり禅定印を結んでいます。衲衣は両袖が膝の横から垂下しており、ここに、この仏像の特徴が見られます。これは宋朝の仏像彫刻の影響をうけたもので、鎌倉時代後半の特徴を残すものです。像容は、宝冠釈迦如来坐像と呼ぶのが、ふさわしいかもしれませんが、宋文化を取り入れた当時は、根強い観音信仰があり、聖観音として造立されたものと思われます。
 杉並区教育委員会


所在地 杉並区永福1-6-15

曹洞宗
 天長山 永昌寺



 当寺は、曹洞宗天長山永昌寺といい、本尊は釈迦如来坐像です。
 開創年代は、はっきりしませんが、『続御府内備考』及び寺伝によると、寛永元年(1624)4月、江戸四ッ谷塩町3丁目(現新宿区愛住町)に建立したとされています。
 開山は、同町の龍昌寺(現中野区中野6-3-7に移転)の5世明岩舜洞で、寛永12年(1635)7月に入寂しています。
 明治43年(1910)、寺院の維持発展のため、現下高井戸2丁目にあった同宗永泉寺を合併し、当所へ移転してきました。
 合併される以前の永泉寺には、玉石薬師と呼ばれる玉石があり、そのいわれは、この玉石が玉川上水永泉寺付近工事の際に、光沢ある玉石として掘り出され、その光沢の中に薬師像が浮出たことによるといわれます。
 また、同寺では、工事の無事俊工を念じてこの玉石を供養したことから、近隣の信仰を集め、因んで丸薬も作られたと伝えられます。
 昭和20年(1945)5月、戦災に遭い、この玉石は、本堂とともに焼かれて光沢を失ったものの、今なお、大切に安置されています。
 このほか、門前と境内には4基の庚申塔と2基の地蔵塔があります。
 昭和60年(1985)3月  杉並区教育委員会

 


所在地 杉並区永福1-7-79

浄土真宗本願寺派
 三宝山 真教寺



 当寺は、三宝山と号する浄土真宗本願寺派の寺院です。寺伝によれば、開基は黒田甲斐守の嫡子で、出家して真了法師と名乗り、江戸麻布宮村(現港区元麻布)に文禄3年(1594)に創建しました。寛永5年(1628)頃も麻布にあり、その後、浜町(現中央区東日本橋3丁目)の本願寺の寺内に移りましたが、いわゆる明暦の大火(1657)で焼失、万治年中(1658~1660)に本願寺と共に築地へ移転しました。  
 明治13年(1880)の文書によれば、本願寺内末寺の一寺で境内80坪余檀家36戸の寺容でした。
 ところが、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で全焼、仮本堂を建てて引き続き築地に寺をかまえていましたが、区画整理事業のため昭和3年(1928)現在地に移転しました。同昭和3年(1928)本堂や庫裡の落成を見ましたが、又もや、昭和20年(1945)5月25日の空襲により焼失してしまいました。現在の本堂は、昭和35年(1960)に建立されたものです。
 本尊の阿弥陀如来立像は、寛永7年(1630)に西本願寺より開山真了に下附されたもので江戸初期の作です。木造・玉眼・上品下生の来迎印を結んでいます。光背と台座は後補です。
 また当寺には、宗祖親鸞上人が80歳の時の自作と伝えられる親鸞坐像、九条摂関家家司田村采女正の作と言われる親鸞上人室玉日姫君坐像、関白九条道家が作らせたと称する玉日姫父九条兼実坐像の三体が安置されています。当初は京都嵯峨の寺にありましたが、昭和10年(1935)頃那須家より当寺に奉納されました。
 昭和63年(1988)3月  杉並区教育委員会


所在地 杉並区永福1-8-1

浄土真宗本願寺派
 築地本願寺 和田堀廟所



 当廟所は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)に所属する築地本願寺の分院で、阿弥陀如来立像が本尊として安置されています。
 大正12年(1923)9月1日の関東大震災によって、築地本願寺は、地中57の子院と共に、焼失しました。その再建については、他に移転の議もありましたが、結局現地復興となり昭和10年(1935)インド様式の大本堂の完成を見ました。墓地については、他に移転することにしていたところ、陸軍省火薬庫跡であった当地が払下げられることになり、昭和4年(1929)出願が許可され、翌昭和5年(1930)当地を所有し、地名にちなんで和田堀廟所と名付けました。
 12,000坪(39,600平方メートル)の広さを有し、富士が望める閑静な近代的公園式墓地として注目されました。
 ところが昭和20年(1945)5月25日、空襲により建物はことごとく焼失しました。しかし、幾多の困難の中バラック建の仮本堂を建てて宗教活動を続けました。ようやくにして昭和28年(1953)、本堂が再建され、更に門信徒会館等が建てられ今日に至っています。
 墓地には樋口一葉・九条武子・海音寺潮五郎・古賀政男・水谷八重子・服部良一等有名人の墓があります。また、明暦の大火(1657)で焼失した築地本願寺(当時は浜町御坊)の再建に力を尽した佃島の人々の墓地があり、その佃島の祖先33名の由来が書かれた石碑も建てられています。
 平成22年(2010)3月 杉並区教育委員会



 築地本願寺 和田堀廟所には『九条武子墓所』、『三島海雲翁顕彰碑』、『』、『』、『』、『』、『』、『』、『』、『』があります。






所在地 杉並区永福1-8-1 (築地本願寺 和田堀廟所)

   三島海雲翁顕彰碑
       日本学士院会員文学博士 新村出 撰文

君大阪府豊能群萱野村に生る幼にして佛門に入り長じて儒教を納め篤信周達気宇還大或は華厳哲学を深玄し或は周易原理を研究し各その要諦を得大海雲を観じ天行健を信じて解脱を志せり性英悟創意に富む明治末年壮にして蒙古に入るや土民の常用せる酸乳を賞味し鋭意改善を盡しし結果遂に現今のカルピス飲料に達するの成功を收むるに至る偉なりと稱すべし即ち功を以て勲三等に叙せらる斯くて技術益ゝ進み経営亦宜しきを得衆員協力社雲の隆昌中外の認むる所たり惟ふに君人文学に親しみ東洋学者に交友多く相依り相輔けて彼此資益少からざるものあるを覚ゆ善財採薬の美談天行健の信念その因縁甚だ深きものなしとせむや乃ち社員諸彦深く翁の人格と徳望とを敬慕するの餘り北京城西大道蒙古に通ぜる居庸關の名蹟に則り翁が顕彰の碑を立つるに方りて其文詞を予に嘱せり予敢て辭せず所懐を叙すること然り
 昭和40年(1965)4月

   顕彰碑の基壇について
 この顕彰碑の基壇は萬里の長城に依る居庸関の過街塔の雲台(塔墓)を象ったものである。
 居庸関は中国河北省にあって、北京の北西60キロに当り、古来天下九関の一といわれ、華北から蒙古に通ずる交通の要衝で元の時代には諸民族が頻繁に往来した関門である。
 その過街塔は下の皇帝が、旅行者の安全息災、福寿を祈るため、至正3年(1343)に関内に建立した仏塔であった。
 今は雲台を残すのみであるが、石灰岩で組み上げ、高さ7.2メートル、幅7.3メートル奥行15.2メートルの通路をあけ、入口には護法の霊獣、内壁には四天王、千仏、曼荼羅および六体文字(梵、漢、蒙古、西夏、チベット、ウイグル)の陀羅尼が彫刻され、元代唯一の世界文化史上貴重な遺跡となっている。

   顕彰碑由来
 カルピスの発明者三島海雲翁を社長に戴くカルピス食品工業株式会社の役員及従業員一同は 置きなの人格と徳望とを深く敬慕しその偉業を永遠に顕彰するため 此の地を卜してこの碑を建立した
 冗談の塔は百済様式に倣い 基壇は翁がカルピス発想の地蒙古に通ずる居庸関の名跡に則った
 基壇洞門の内壁の刻文は居庸関過街塔の如来心陀羅尼の一句を梵語西蔵・蒙古・ウイグル・西夏・漢字の六体そのまゝの書体で写し これに和・英ニ体を加えて八体の文字であらわしたものである


所在地 杉並区永福1-8-1 (築地本願寺 和田堀廟所)

  九條武子夫人

 武子様は、明治20年(1887)10月20日、本願寺第21代明如上人の第6子としてお生れになりました。
 兄光瑞氏が第22代ご門主になられてから積極的に婦人会活動、社会福祉活動に従事されましたが、昭和3年(1928)2月7日、お念仏を称えながら42歳の生涯を終られました。
 毎年2月7日には、如月忌と称して全国の仏教婦人会々員による婦人を偲ぶ法要が勤まります。
 また、歌人としても有名で、主著「無憂華」は、多くの人に読まれています。

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      ひかれゆく 
  わがあしあとの
      おぼつかなしや


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