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東京都杉並区の歴史
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所在地 杉並区上荻1-21-7

 荻窪白山神社
 この神社は旧下荻窪村の鎮守で、祭神は伊邪那美命です。
 下荻窪村が中世に村をつくていたことは、宝徳3年(1451)の上杉家文書や、昭和54年(1979)に荻窪3丁目33番から宝徳前後の年号をもつ板碑が発見されていることからも知られます。
 当社の起源は、社伝によると文明年間(1469~1486)関東管領上杉顕定の家来中田加賀守が、屋敷内に五社権現社を奉齋したのにはじまり、後に中田一族が栄え、ここに社殿を建てたといわれます。
 当社はかつて歯の神様として知られていました。伝えられるところによると中田加賀守の弟兵庫が、激しい歯痛に悩んでいたある夜、御神託により境内の萩を箸として食事をすると不思議に歯の痛みが止ったという。この事情を聞いた近隣の人々は、歯痛もなおる神様として信仰厚く参拝者も多くなったといわれます。
 その萩もかつては境内に多く繁っていましたが、今では社殿北側の老松の根元に一株残っているだけになりました。昭和43年(1968)の社殿改築の折には、古い社殿の長押から納められた萩の箸が、たくさん出てきたといわれます。
 社屋や数多い奉納品の中、昭和3年(1928)に奉納された神輿は150貫余(約563キログラム)もあり、また大太鼓(直径149センチメートル)は、府中の大国魂神社の太鼓につぐ都内第二のおおきさであるといわれます。
 昭和42年(1967)環状8号線拡張にともなって本殿、拝殿、社務所、玉垣などの増・改・修築や多くの奉納がなされ、今日の姿を得るに至りました。
 祭日は9月8日です。
 昭和56年(1981)2月15日 杉並区教育委員会

















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所在地 杉並区上荻2-1-3

真言宗豊山派
 慈雲山 萩寺 光明院
  
(「荻窪」の地名発祥の由来の寺)
 慈雲山光明院は、真言宗豊山派の寺院で通称「荻寺」と呼ばれ、荻窪という地名もその名に由来するといわれています。
 当寺蔵の「縁起石碑」によれば、和銅元年(708)行基作の仏像を背負った遊行中の僧が、この地を通りかかったところ急に仏像が重くなり、荻の草堂を作って仏像を安置したのが開創と伝えています。
 本尊の千手観音は南北朝期の作であり、また境内から本尊と同時代に作られたとみられる五輪塔や室町期の板碑などが出土しており、当寺の開創は南北朝期にさかのぼるものと考えられます。
 今も寺の周辺に残る「四面堂」「堂前」の地名も、当寺の御堂に起源をもつといわれています。
 本尊の千手観音像は、俗に「荻窪の観音様」の名で近在の人々に親しまれ、大正時代までは本尊の写し観音が地域を巡業する行事が行われ、信仰を集めたといわれています。
 なお、嘉永3年(1850)再建された本堂は現在の位置よりも西南側にありましたが、明治21年(1888)甲武鉄道(現中央線)建設のため、現在地に移されました。
 昭和55年(1980)2月20日 杉並区教育委員会

 光明院には『木造 千手観音菩薩坐像』、『夜念仏結衆交名供養板碑』があります。














所在地 杉並区上荻2-1-3 (光明院)

 木造 千手観音菩薩坐像
  平成3年(1991)10月28日指定 杉並区指定有形文化財
 本尊は当寺の本尊で、十一面四十二臂、寄木造りの、像高78cmの像です。千手観音像では比較的少ない坐像の形をとっています。本来は、全体に漆を塗って金箔をおいた漆箔造りですが、永年の香煙が体を厚く覆って、くすんだ色になっています。
 化仏は頂上仏を中心に、左右の垂髻部に二面、地髪部に八面の十一体の小面を差し込んであります。像容は洗練された手法を示し、彫眼でやや伏目なお顔は端正です。本像は、区内には数少ない室町時代の作で、格調ある仏像として基調です。
所在地 杉並区上荻2-1-3 (光明院)

 夜念仏結衆交名供養板碑
  昭和59年(1984)3月31日指定 杉並区指定有形文化財
 室町時代の東国の民間習俗を伝える板碑は、宗教行事に伴って造立されたもので、念仏・夜念仏・月待などのものがあり、本板碑はその中でも早い時期に出現した夜念仏供養板碑の代表的なものです。碑面には、阿弥陀三尊種子と光明真言の■■三具足、そして文明3年(1471)10月13日夜念仏供養■修敬白の記銘と、結衆7人の名などが刻まれています。
 本板碑は、室町時代に杉並にも夜念仏信仰のあったことを示す貴重な資料です。








所在地 杉並区上荻2

 薬罐坂やかんざか

 この坂道は薬罐坂と言われていて『豊多摩郡誌』(大正5年〔1916〕刊)には「大字上荻窪本村に俗称薬罐の転がり居れる奇怪事ありて、この名を得たるよし。雨の深夜など、今も時として薬罐出ずるなど云うものあり。」と書かれています。
 今でも地元には、次のような言伝えが残されています。雨のある夜、八丁通りで一杯飲んで、家に帰る途中、ほとんど人家のない下り坂を歩いていると、真赤に焼けた大きな薬罐賀道路のまん中に転っていた。一杯ひっかけて良い薬罐は、ころころと下り坂を転がり落ちていった。この話が広まり、その後も何人もの人が、焼けて真赤になった薬罐を見たということから、誰言うともなしに薬罐坂の呼び名がついたと言うことです。
 今とはちがい交通の開けていなかった区画整理前の薬罐坂は、両側に樹木の茂った薄暗い、道幅も狭い急坂で、大八車などを引いて通るには、大変な坂道でした。そのさびしい坂には、狐狸のたぐいがすんでいて、いたずらをしたということが、この様な伝説を生みだしたのかも知れません。
 通称地名には、昔の杉並をしのばせるものがたくさんあります。薬罐坂の地名も大切に伝えてゆきたいものです。
 平成3年(1991)3月 杉並区教育委員会




所在地 杉並区上荻4-19-2

 荻窪八幡神社
 この神社は旧上荻窪村の鎮守で、今から約1080年前の寛平年間に、応神天皇を祭神として建立されたと伝えられています。
 永承6年(1051)、源頼義が奥州の安倍貞任征伐の途中、ここに宿陣して戦勝を祈願し、のち康平5年(1062)凱旋の時、神恩に感謝して当社を厚く祭ったといわれています。
 また文明9年(1477)4月、江戸城太田道灌は、上杉定正の命をうけ石神井城主豊島泰経を攻めるにあたり、源氏の故事にならってこの神社に武運を祈願しました。この時植えた槇の樹一株が、500年の歳月が経過した今も「道灌槇」と呼ばれ、御神木として大切に保護されています。
 なお、当社には、永仁2年(1294)、嘉慶2年(1388)、応永29年(1422)銘の板碑、その他土器や石器類、社宝の勝海舟の大幟、掛軸などがあります。
 祭日は9月15日です。
 昭和54年(1979)2月1日 杉並区教育委員会












 荻窪八幡神社には『荻窪八幡神社のコウヤマキ(道灌槇)』、『延宝七年銘 石造狛犬』、『板絵着色製茶図』、『彰忠碑・乃木希典揮毫』、『小俣金治先生之像』、『「クリの豊多摩早生」説明板』があります。
所在地 杉並区上荻4-19-2 (荻窪八幡神社)

 「クリの豊多摩早生」説明板
 東京はかつて、クリの大産地でした。
 大正から昭和の初期にかけて、主に北多摩の農村地帯では、雑木林にまじって広大なクリ園が、果てしなく続いていました。
 このクリは、当八幡神社の近くに住む市川喜兵衛(豊多摩郡井荻村荻窪)が明治20年(1887)頃、栽培中の茶園内に自生のクリ苗を発見、偶然早く稔る早生の栗ができた事から、明治41年(1908)、当時の郡名にちなんで「豊多摩早生」と命名しました。
 小粒で収量はあまり多くありませんが、秋まで待たずに、8月中旬から下旬には収穫できるので市場では高値で取り引きされ、全国的にも有名となり各地で栽培されていました。
 特に第2次世界大戦後、クリに大被害を与えた害虫・クリタマバチに強い抵抗性をもっている豊多摩早生は、品種改良の親として用いられ、伊吹(農林省果樹試験場で、銀寄に豊多摩早生を交配)という優良品種を生み出しました。
 平成9年(1997)度JA東京グループ
 農業協同組合合法施行50周年記念事業
 東京中央農業協同組合

    THE AGRICULTURE OF EDO&TOKYO
       Toyotama-Wase,an Early RIpening Chestnut
 Tokyo used to be a big prodction area of chestnut.Especially,in the rural district of Kita-Tama,a great ,many chestnut farms spread extensively throughout the thickets of assorted trees.
 Around 1887,Kihei Ichikawa,a farmer who lived nearby,found by chance an unusually early ripe chestnut tree and named it Toyotama-wase after the name of the county.
 Although the nut is small and not particularly high-yielding,it was traded at higher prices in the market becouse of its early appearance frommid-to late August before the onset of fall.It soon acquired a nation wide high reputation and became a popularly grown variety of chestnut throuhout the country.
所在地 杉並区上荻4-19-2 (荻窪八幡神社)

杉並区指定有形文化財(彫刻)
 延宝七年銘 石造狛犬
     昭和59年(1984)3月31日指定

 本殿内に安置されている一対の狛犬は、高さ約26cm程の小さなもので、前足を立て、後足を折伏せた、いわゆる「犬座姿勢」をとり、頭は楕円形で口が大きく、ユーモラスな顔をしています。
 また、背から脚にかけて「延宝七年九月 八幡宮 荻久保村」と刻まれ、区内では最も古く、都内でも浅草寺 淡島大国堂の狛犬(延宝三年)に次ぐものです。素朴な中にも入念な彫造が施された造形は、江戸初期の作風をうかがわせます。
 杉並区教育委員会




所在地 杉並区上荻4-19-2 (荻窪八幡神社)

 荻窪八幡神社のコウヤマキ(道灌槇)
 関東官領であり、武蔵の領主であった、上杉定政に対し、家臣の長尾景春が武蔵を侵さんとして石神井城主・豊島泰経及びその甥の平塚城主・豊島泰明と款を通じて反逆した。
 之を激怒した上杉定政は江戸城主太田道灌に出陣を命じた。
 道灌は文明9年(1477)4月13日平塚城を攻撃し四囲より火を放った。この急報に豊島泰経は道灌軍の背後を突き、江戸城へ進撃せんとして江古田、沼袋の線で石神井城へ進撃する道灌勢と遭遇し後世「江古田の合戦」と伝えられる戦斗を開いたが豊島軍利あらず、道灌軍は騎虎の勢をもって石神井城に迫った。
 文明9年(1477)4月16日、道灌軍は東及南より石神井城を攻撃するに当って、道灌は当社に詣で戦捷を祈願して軍神祭を行ない、槇樹一株を献植した。
 これが今当社に伝わる道灌槇で、一根二幹であったが昭和9年(1934)の暴風雨で一幹折損し一幹となり、樹齢500年を経た今なお、「千年の社・百尺の高野槇」と称えられている。
 昭和61年(1986)3月、杉並区・天然記念物(植物)に指定された。
 荻窪八幡神社社務所




 荻窪八幡神社のコウヤマキ
  昭和61年(1986)3月31日指定 杉並区指定天然記念物
 当社本殿前のコウヤマキは、幹周囲(目通り)2m、樹高20m、樹齢は300年以上と推定される巨樹です。コウヤマキは日本特産の常緑高木で、天然生育地は限られていますが、日吉社、権現社あるいはこれらに属する系統の社頭には、神木として植栽されることもあります。当社のコウヤマキもこの例と思われ、大t同感が石神井城攻撃に際し戦勝祈願の為献植したとも伝えられています。300年を超える樹齢にもかかわらず樹勢も優れ、都内でも有数なコウヤマキとして貴重なものです。
 杉並区教育委員会


所在地 杉並区上荻4-19-2 (荻窪八幡神社)

 小俣金治先生之像
小俣先生は父祖代〃神職の家に生れ明治35年(1902)小学校に奉職30有余年先生の薫陶を受けし者数千名に及ぶ又荻窪八幡神社神職として50有余年郷土の発展に尽す茲に先生を敬慕し寿像を建て崇高なる人徳を偲び教訓を後世に伝う
 昭和37年(1962)9月吉日 小俣金治先生を讃える会







所在地 杉並区上荻4-19-2 (荻窪八幡神社)

 彰忠碑

 乃木希典揮毫
先年桃井第一小斈校庭に建てられた本碑は大東亜戦争の直後故あつて地中に埋められて居たが今回有志者によって此の地を相し再建して以て永く其の遺芳を偲ばんとするものである。
 昭和参拾壱年(1956)6月
所在地 杉並区上荻4-19-2 (荻窪八幡神社)

 板絵着色製茶図
  平成15年(1940)3月12日指定 杉並区指定有形民族文化財
 この絵馬は、収穫した茶葉を緑茶に加工する製茶の工程と製茶に関わる茶師を描いたもので、「揉み」「仕上げ」「計量」「運搬」の工程を行う計7名の人物が描かれています。
 この絵馬が奉納された明治15年(1882)頃には杉並地域でも製茶が盛んでした。小規模ながらも、人々の生産意欲は強く、この絵馬の奉納は、新しい農産物にかけた農民の心情と厚い信仰心を物語るものといえます。本絵馬は、杉並区の産業資料として、また当時の信仰や風俗を伝えるたいへん貴重な資料です。
 杉並区教育委員会


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