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東京都杉並区の歴史
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所在地 杉並区大宮2-3-1 (大宮八幡宮)

   大賀蓮(縄文蓮)
昭和26年(1951)、故大賀一郎博士が千葉県検見川の泥炭層の中より2000年前の古ハスの実を発掘、発芽に成功され世界的に有名になった大賀蓮御鎮座940年の奉祝記念として神奈川県在住の博士の甥神門長良氏より奉納されたもの。
 平成16年(2004)3月3日 大宮八幡宮
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所在地 杉並区大宮2-3-1 (大宮八幡宮)

 松平秀康(1574~1607)は、徳川家康の次男として生まれ、始めよと見秀吉の養子となり結城の姓を授かる。■■■■関が原の戦功により越前藩主に封ぜられ、松平秀康と名のる時に清涼院を側室に迎える。
 清涼院は当宮を崇敬し、ご参拝の折に、この菩提樹を植樹されたと伝えている。
 社務所

杉並区貴重木   平成14年(2002)4月18日指定
 男銀杏

所在地 杉並区大宮2-3-1 (大宮八幡宮)

東京都指定天然記念物
 大宮八幡宮社叢
     昭和8年(1933)10月指定

 「大宮」という地名は、神域が広大であったことに由来する。
現在の境内は14,000坪。樹齢を重ねた大樹が点在し、周囲も緑が多く今も武蔵野の面影を残している。
 ことに社叢につつじが多いのは、徳川3代将軍家光の発願により、1,000本の山つつじが植えられたからである。満開時の華やかさから、いつしか「山照らしつつじ」と称されるようになったと伝えられている。現在も境内には16種6,000本のつつじが植えられている。
 数々の老木の中でも、御社殿左側にある菩提樹は、結城秀康(徳川家康の次男・越前松平家)の側室で、当社を篤く崇敬した清涼院のお手植えと伝えられ、樹齢は350年以上である。6月は黄金色の清楚な花をつけ、夏には青々とした葉で日かげをつくり、秋には種を落とす。
 また神門の両袖には、梢高く茂り合う御神木の夫婦銀杏があり、特に右の「男銀杏」は、杉並区内で一番の巨木である。「女銀杏」は秋には実をつけ、色づいた葉は秋空の境内に彩をそえている。
 平成2年(1990)3月31日建設 東京都教育委員会 

 女銀杏


所在地 杉並区大宮2-3-1 (大宮八幡宮)

   大宮八幡神社沿革碑
      公爵徳川家達篆額(徳川家第16代当主)

武蔵の國、豊多摩郡和田堀内村に祀有り。曰く、大宮八幡。境域は廣潤に而て、老杉の森は、雲霄を列勢す。相傳るは、源頼義が東征の次、武蔵阿佐谷に雲氣起ち、其の上に白幡の如きが揺れ曳けり。頼義謂く、是れ八幡の神の示す吉兆也と。進軍を遂げ、賊を平し、乃に祠を創る。此の時、康平6年(1063)也。後に義家、祠を更修し、封戸を定め、寶仙寺を建つる。別當と為し、僧坊12を置き、鹿島より松の苗、千株を移植す。
鎌倉幕府の賽を以って、建増し之を修す。輪奐を窮むを以って、永享元年(1429)に、寶仙寺を中野郷に移し、一宇を営む。祠の旁に大宮寺と名し、以って別當に充てる。
永禄中に、上杉・北條の二氏、干戈を交へ、此祠・僧坊盡く
兵燹に罹る。天正2年(1574)に有た、大石信濃守は、重ねて之を建つる。
徳川氏は、初たに、社領30石と定め、朱印状を付す。且つ、躑躅を御手洗川の上に多く栽す。是より歴世尊崇し、大将軍は必ず親しく参拝す。頃者、村の有志の者、胥に謀りて、社殿の繕ひ、歩道を修し、櫻樹・数百章を列楦す。老杉と相錯りて、幽遂浄潔にして、人に益々崇敬の心を起さしむ。
因って碑を樹て、以って沿革を記せんと欲して、人を介し余文余謂を請うは、此の擧なり。以って人心を淳し、流俗を振し、国家に崇神の旨を深め合いて、其れ、世に教ふるに功有ること、大なる矣。乃ち喜びて、詞を繋ぎて曰く。
斯に屹す古河は 源氏が創に自る 鎌倉江戸と 世に歴り禋祀す
廟貌は茲す新にして 神威は顯に赫く 碑は樹て銘を勒み 以って因革を記す
 大正8年(1919)9月 池田四郎次郎撰 齋藤政徳書


所在地 杉並区大宮2-3-1 (大宮八幡宮)

 この社号標はもと表参道にあったものですが神社名が「大宮八幡神社」から「大宮八幡宮」と変りましたので新社号標の建立を機(昭和56年〔1981〕9月)に、ここに移設し記念のため保存するものです。
  大宮八幡宮

所在地 杉並区大宮2-3-1 (大宮八幡宮)

杉並区指定有形文化財
 木村常陸介 前田孫四郎 制札 1枚
     昭和59年(1984)3月31日指定    

 豊臣秀吉は天下統一に際し、小田原北条氏を包囲中、その支配下にあった八王子城を攻撃し、天正18年(1590)6月23日に落城させました。当宮の宝物殿に納められている制札は、その翌天正18年(1590)6月24日、豊臣家臣木村常陸介・前田孫四郎利長の両部将名で当宮に発給されたもので、境内での殺生、人馬の通行、竹木伐採を堅く禁じています。本制札は、豊臣軍によって当宮の保安がはかられたことを示すものとして、又区内に残る江戸時代以前の唯一の制札として、貴重なものです。
  杉並区教育委員会

所在地 杉並区大宮2-3-1 (大宮八幡宮)

杉並区指定有形文化財
 木造随身坐像 一対
     平成8年(1996)12月25日指定

 江戸時代中期の大仏師「左近」のさくであるこの木造随身坐像は、もともと拝殿の階段脇に安置されていましたが、現在は当宮の宝物殿に保管されています。本像は若者像と老人像とで対をなし、共に全体的に厚く着色が施され、白色の顔料に朱の唇を描く顔面や衣服の絵柄文様もよく残り、保存も良好と言えます。 
 また、若者像の体内からは製作年、作者・願主を記した銘板が発見され、本像を製作した背景もよくわかります。美術・技術的にも優れ神社関係の彫像としても貴重な資料です。
  杉並区教育委員会

所在地 杉並区大宮2-3-1 (大宮八幡宮)

杉並区指定有形文化財
 和田堀公園大宮遺跡 方形周溝墓出土遺物
     昭和57年(1982)11月1日指定

 現在、大宮八幡宮清涼殿並びに杉並区立郷土博物館に保管・展示されている遺物は、方形周溝墓(弥生時代の首長クラスの人の墓)内から出土したもので、壺形土器5点、台付土器1点、勾玉1点、ガラス小玉12点にのぼります。土器類は弥生時代後期のもので彩色・精緻な文様が施文され、区内唯一の出土例である玉類は、墓の主体部付近で発見されたこともあり、被葬者が生前装着したまま埋葬されたことを物語っています。
  杉並区教育委員会


所在地 杉並区久我山1-3-2

  民間信仰石塔
 ここに建立されている石塔は、安永5年(1776)銘の庚申塔と享保15年(1730)銘の観音塔です。
 庚申信仰は「長生きするためには庚申の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降佛教や神道の振興と習合して庶民の間にひろまりました。江戸時代には、ここに見られるような青面金剛を本尊とした石塔を造立し悪疫退散、村内安全等の祈願を行うことが盛んになりました。
 この庚申塔は、この辺りが久我山村字原といわれた頃、当場所より少し西寄りの井ノ頭道の交差点に建立されたものです。ところが戦争中周辺が軍用地となり、塔の管理も十分に行われないまま放置されてきましたが、昭和52年(1977)1月地元有志者の奉仕により、この地に安置されました。
 なお、観音塔は昭和55年(1980)4月この近くで発見され、安置されたものです。この観音塔造立の目的は、刻字の一部が欠けているたま不明ですが、彫られている観音は如意輪観音で、衆生の欲望と万苦を救済する菩薩とされているものです。
 昭和56年(1981)2月15日 杉並区教育委員会


所在地 杉並区久我山2-11

  玉川上水
 この玉川上水は、多摩川の水を江戸市中に供給するため、江戸幕府が承応2年(1653)庄右衛門・清右エ井門兄弟(後の玉川兄弟)に命じて開削させた用水路です。当時の江戸では市外の発展にともない人口が急増し水不足となったのでこの丈水路の開発が計画されたと伝えられています。
 西多摩郡羽村から四谷大木戸(新宿区内藤)まで約43キロメートルを開水路で導水し、そこから先は石管や木管によって府内に給水しました。工事はわずか1年有余というおどろくべき速さで完成しましたが、このために武蔵野一帯の農民はスキ・クワ持参でかり出され、いわゆる突貫工事を強制されたと伝えられています。また、『新編武蔵風土記稿』によれば水路は民家の敷地を横切ることも多く、当時生まれた中高井戸村(当初は高井戸新田と称した)は、立退きを命じられた上下高井戸村の農民が代替地を開発したものと伝えられています。



 玉川上水は、江戸市中への飲料水の供給という本来の目的を果たす以外に武蔵野台地の村々に分水され、飲料水・灌漑用水・水車の動力として新田開発をうながしました。分水口は、最古の野火留用水をはじめ最盛期には総数33ヵ所にものぼり、杉並区内には、下高井戸村分水・烏山村分水・上北沢分水の取水口がありました。この説明板の右手に見えるのが烏山村分水口の跡で、上北沢村分水口跡とともに区内での貴重な現存例です。



 明治31年(1898)、東京に改良水道が完成したため明治34年(1901)に廃止されましたが、水路はそのまま淀橋浄水場への導水路として近年まで使用されていました。新宿副都心計画にともなう淀橋浄水場の撤去により流路はさらに短縮され、現在は小平監視所(小平市中島町)から上流部のみを水道導水路として使用しています。
 平成10年(1998)3月 杉並区教育委員会


所在地 杉並区久我山2-16-14 (東京都太田記念館)

  向ノ原遺跡B地点
 向ノ原遺跡B地点は、武蔵野市にある井之頭池を水源とする、神田川南岸に形成された急崖な台地上に位置しています。
 当遺跡は、杉並区久我山2丁目16番を中心とした、先土器時代(約1万6千年前)から縄文時代早期後半(約8千年前)にかけての集落跡で、当遺跡の東側に隣接する向ノ原遺跡(大蔵省印刷局運動場内)と同一遺跡で、その西端をなすものと思われます。
 東京都太田記念館建設に先立ち、昭和62年(1987)から昭和63年(1988)にかけて実施された発掘調査では、先土器時代のナイフ形石器をはじめとする石器類、バーベキュー跡と考えられる拳大の石を数10個集めた礫群が7箇所発見されています。
 縄文時代では、草創期(約1万年前)の隆起線文土器と爪形文土器約30点が出土して注目されました。最古の縄文土器であるこれらの土器群は今のところ、区内はもとより武蔵野台地における当該期の資料として最大の質と量を誇っています。
 また、この他にも早期前半(約9千年前)の住居跡も6基発見されており、神田川流域の当遺跡を中心とした一帯が、区内における最古の縄文文化発祥の地点である可能性を提供した重要な遺跡であると言えます。
(なお、出土した考古遺物は、すべて杉並区立郷土博物館に展示してありますので、当記念館では見学することはできません。)
 平成3年(1991)3月 杉並区教育委員会


所在地 杉並区久我山3-37-14

  久我山稲荷神社
 



 この神社は、『新編武蔵風土記稿』多摩郡久ヶ山村の条に稲荷社とあって「除地、二段五畝十五歩、堂屋舗にあり、小社にて上屋九尺に二間、拝殿二間に三間、南向、前に鳥居を立つ、石階鳥居の外に三級内に二十級あり、村の鎮守、例祭十一月にて日定らず、光明寺の持」と記されているように、創建の由来については詳かではないが古来からの久我山村の鎮守で、祭神は保食命です。
 明治40年4月に字北原にあった天祖神社(祭神大日霎貴命)が合祀されました。
 昭和16年2月に村社となりました。
 境内末社には八雲神社・天満天神社があります。
 本社では、7月24日に夏祭りが行われ「湯の花神楽」が奉納されます。
 その昔、この地に疫病が流行した際、村人が神楽を奉納し、祈願したところ、疫病がやんだという故事によるものです。
 この湯立ては、杉並区内では極めて珍しい行事となっています。
 境内には明治32年(1899)に氏子が奉納した金玉均(朝鮮の李王朝末の政治亡命家)の手跡を刻んだ「人心同」の碑があります。
 この碑は、久我山生れで、幼くして小笠原にわたり、砂糖王と呼ばれた飯田作左衛門が、遠く離れている父に朝夕仕えることもできず、心で思うばかりである。せめて父の住むところに自分の不幸をわびる石碑を建ててくれと頼み、その心根に強く打たれた金玉均の手跡です。
 なお、元禄16年(1703)の庚申塔があります。かつて村人がこの庚申様に砧の槌を納めて養蚕の無事を祈願したと言い伝えられます。
 また、昭和57年に新築された「額堂付神楽殿」には多数の絵馬が保存されています。
  昭和58年(1983)3月 杉並区教育委員会



  湯の花神楽について
 この久我山稲荷神社には古くから7月24日に八雲大神をお祀りし、湯の花神楽を奉納して健康を祈願する夏祭が行われて参りました。これは昔此の里に疫病が流行し、多くの人が亡くなりました。困り果てた人々は氏神様に集まり御神楽を奉納し御祭を致しました所、疫病を防ぐ事が出来ました。喜んだ人々は毎年このお祭を行って参りましたが、明治20年代に一度中止した事がございます。この年再び疫病が蔓延し、驚いた人々はその後絶やす事なく此の夏祭を行って参りました。此の時行われます湯の花とは、湯立行事と申しまして、大釜に熱湯を仕立て小笹をもってその湯の滴を全身に浴し、誠心誠意を神明に誓うものでございます。古くは盟神深湯(くがだち)と申しまして、熱湯を探り正邪を神前に証した事から起ったもので御座います。尚当社では御神楽の最後に神前にお供えした御餅を撒き、此のお祭の行事を終ります。
 奉納 秦重吉



                                    天満神社・八雲神社



 久我山稲荷神社境内には『人心同の碑』、『力石』、『庚申様御祭神・猿田彦大神』があります。


所在地 杉並区久我山3-37-14 (久我山稲荷神社)

  庚申様御祭神・猿田彦大神  元禄16年(1703)祀
此処ニ御祀リシテアリマス庚申様ハ西向ノ庚申様ト申シマシテ古クヨリ遠近ノ信仰ヲ集メテ居リマシタ 中デモ砧ノ槌ヲ納メテ養蚕豊ナル事及我家ノ繁栄ヲ祈願シタ故事ハ有名デ御座イマス
此ノ故事ニ因ミマシテ現在モ正月元旦ニハ神社ニ於テ金銀ノ槌ヲ受与シ氏子ノ幸福ヲ祈ル慣ハシガ残ッテ居リマス
当庚申様ハ西向ヲ以テソノ御利益最大ト言伝ガ御座イマス

 


所在地 杉並区久我山3-37-14 (久我山稲荷神社)

  人心同の碑
 この碑は、久我山生れで、幼くして小笠原にわたり、砂糖王と呼ばれた飯田作左衛門が、遠く離れている父に朝夕仕えることもできず、心で思うばかりである。せめて父の住むところに自分の不幸をわびる石碑を建ててくれと頼み、その心根に強く打たれた金玉均の手跡です。
  昭和58年(1983)3月 杉並区教育委員会

 


所在地 杉並区久我山3-37-14 (久我山稲荷神社)

  力石
 明治、大正時代、村の若者がこれを担ぎ上げ、力を競って楽しんだものです。石の表には、その重さと担ぎ上げた人の名が刻んであります。 
古来病人ある時、これを持ち上げれば全快するとした「石占い」に由来すると云われています。
この石の重さは、120キログラム有ります。
 平成19年(2007)7月吉日 氏子一同

 


所在地 杉並区久我山4-50

 民間信仰石塔

 小堂内には、奥壁向って左から寛文5年(1665)銘庚申塔・宝永5年(1708)銘念仏供養塔・享保4年(1719)銘地蔵菩薩、寛文10年(1670)銘日侍塔、入口近くの左右に3基ずつ並んだ享保8年(1723)銘六地蔵菩薩の石塔10基が安置されています。
 これらの石塔は、銘文などから旧久我山村の各所にあったことがほぼ確認できます。



 寛文5年銘の庚申塔は、未だ青面金剛神ではなく地蔵菩薩を尊像とする比較的古い型の供養塔です。
 享保4年銘の地蔵菩薩には、茶燈料として土地を永代寄進したことが刻されており、当時の信仰の形態がうかがわれます。
 寛文10年銘の日侍塔は、聖観音菩薩を刻んでいます。日侍塔は、全国的にみても比較的少ない供養塔です。



 宝永5年銘の念仏供養塔と享保8年銘の六地蔵菩薩には、光明寺の住職と村人との騒動にまつわる供養塔であるとの伝えがありますが、定かではありません。光明寺は、この墓地の南側にありましたが、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となりました。
 この石塔群は、時代的・地域的にまとまっており、いずれも江戸時代中期の標準的な作風を残すものであり、また、当時の久我山地域の信仰形態や風俗を示すものとして貴重なものです。
  平成2年(1990)2月 杉並区教育委員会


所在地 杉並区上荻1-21-7

 荻窪白山神社
 この神社は旧下荻窪村の鎮守で、祭神は伊邪那美命です。
 下荻窪村が中世に村をつくていたことは、宝徳3年(1451)の上杉家文書や、昭和54年(1979)に荻窪3丁目33番から宝徳前後の年号をもつ板碑が発見されていることからも知られます。
 当社の起源は、社伝によると文明年間(1469~1486)関東管領上杉顕定の家来中田加賀守が、屋敷内に五社権現社を奉齋したのにはじまり、後に中田一族が栄え、ここに社殿を建てたといわれます。
 当社はかつて歯の神様として知られていました。伝えられるところによると中田加賀守の弟兵庫が、激しい歯痛に悩んでいたある夜、御神託により境内の萩を箸として食事をすると不思議に歯の痛みが止ったという。この事情を聞いた近隣の人々は、歯痛もなおる神様として信仰厚く参拝者も多くなったといわれます。
 その萩もかつては境内に多く繁っていましたが、今では社殿北側の老松の根元に一株残っているだけになりました。昭和43年(1968)の社殿改築の折には、古い社殿の長押から納められた萩の箸が、たくさん出てきたといわれます。
 社屋や数多い奉納品の中、昭和3年(1928)に奉納された神輿は150貫余(約563キログラム)もあり、また大太鼓(直径149センチメートル)は、府中の大国魂神社の太鼓につぐ都内第二のおおきさであるといわれます。
 昭和42年(1967)環状8号線拡張にともなって本殿、拝殿、社務所、玉垣などの増・改・修築や多くの奉納がなされ、今日の姿を得るに至りました。
 祭日は9月8日です。
 昭和56年(1981)2月15日 杉並区教育委員会



















所在地 杉並区上荻2-1-3

真言宗豊山派
 慈雲山 萩寺 光明院
  
(「荻窪」の地名発祥の由来の寺)
 慈雲山光明院は、真言宗豊山派の寺院で通称「荻寺」と呼ばれ、荻窪という地名もその名に由来するといわれています。
 当寺蔵の「縁起石碑」によれば、和銅元年(708)行基作の仏像を背負った遊行中の僧が、この地を通りかかったところ急に仏像が重くなり、荻の草堂を作って仏像を安置したのが開創と伝えています。
 本尊の千手観音は南北朝期の作であり、また境内から本尊と同時代に作られたとみられる五輪塔や室町期の板碑などが出土しており、当寺の開創は南北朝期にさかのぼるものと考えられます。
 今も寺の周辺に残る「四面堂」「堂前」の地名も、当寺の御堂に起源をもつといわれています。
 本尊の千手観音像は、俗に「荻窪の観音様」の名で近在の人々に親しまれ、大正時代までは本尊の写し観音が地域を巡業する行事が行われ、信仰を集めたといわれています。
 なお、嘉永3年(1850)再建された本堂は現在の位置よりも西南側にありましたが、明治21年(1888)甲武鉄道(現中央線)建設のため、現在地に移されました。
 昭和55年(1980)2月20日 杉並区教育委員会

 光明院には『木造 千手観音菩薩坐像』、『夜念仏結衆交名供養板碑』があります。














所在地 杉並区上荻2-1-3 (光明院)

 木造 千手観音菩薩坐像
  平成3年(1991)10月28日指定 杉並区指定有形文化財
 本尊は当寺の本尊で、十一面四十二臂、寄木造りの、像高78cmの像です。千手観音像では比較的少ない坐像の形をとっています。本来は、全体に漆を塗って金箔をおいた漆箔造りですが、永年の香煙が体を厚く覆って、くすんだ色になっています。
 化仏は頂上仏を中心に、左右の垂髻部に二面、地髪部に八面の十一体の小面を差し込んであります。像容は洗練された手法を示し、彫眼でやや伏目なお顔は端正です。本像は、区内には数少ない室町時代の作で、格調ある仏像として基調です。
所在地 杉並区上荻2-1-3 (光明院)

 夜念仏結衆交名供養板碑
  昭和59年(1984)3月31日指定 杉並区指定有形文化財
 室町時代の東国の民間習俗を伝える板碑は、宗教行事に伴って造立されたもので、念仏・夜念仏・月待などのものがあり、本板碑はその中でも早い時期に出現した夜念仏供養板碑の代表的なものです。碑面には、阿弥陀三尊種子と光明真言の■■三具足、そして文明3年(1471)10月13日夜念仏供養■修敬白の記銘と、結衆7人の名などが刻まれています。
 本板碑は、室町時代に杉並にも夜念仏信仰のあったことを示す貴重な資料です。








所在地 杉並区上荻2

 薬罐坂やかんざか

 この坂道は薬罐坂と言われていて『豊多摩郡誌』(大正5年〔1916〕刊)には「大字上荻窪本村に俗称薬罐の転がり居れる奇怪事ありて、この名を得たるよし。雨の深夜など、今も時として薬罐出ずるなど云うものあり。」と書かれています。
 今でも地元には、次のような言伝えが残されています。雨のある夜、八丁通りで一杯飲んで、家に帰る途中、ほとんど人家のない下り坂を歩いていると、真赤に焼けた大きな薬罐賀道路のまん中に転っていた。一杯ひっかけて良い薬罐は、ころころと下り坂を転がり落ちていった。この話が広まり、その後も何人もの人が、焼けて真赤になった薬罐を見たということから、誰言うともなしに薬罐坂の呼び名がついたと言うことです。
 今とはちがい交通の開けていなかった区画整理前の薬罐坂は、両側に樹木の茂った薄暗い、道幅も狭い急坂で、大八車などを引いて通るには、大変な坂道でした。そのさびしい坂には、狐狸のたぐいがすんでいて、いたずらをしたということが、この様な伝説を生みだしたのかも知れません。
 通称地名には、昔の杉並をしのばせるものがたくさんあります。薬罐坂の地名も大切に伝えてゆきたいものです。
 平成3年(1991)3月 杉並区教育委員会




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