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東京都杉並区の歴史
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所在地 杉並区久我山1-3-2

  民間信仰石塔
 ここに建立されている石塔は、安永5年(1776)銘の庚申塔と享保15年(1730)銘の観音塔です。
 庚申信仰は「長生きするためには庚申の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降佛教や神道の振興と習合して庶民の間にひろまりました。江戸時代には、ここに見られるような青面金剛を本尊とした石塔を造立し悪疫退散、村内安全等の祈願を行うことが盛んになりました。
 この庚申塔は、この辺りが久我山村字原といわれた頃、当場所より少し西寄りの井ノ頭道の交差点に建立されたものです。ところが戦争中周辺が軍用地となり、塔の管理も十分に行われないまま放置されてきましたが、昭和52年(1977)1月地元有志者の奉仕により、この地に安置されました。
 なお、観音塔は昭和55年(1980)4月この近くで発見され、安置されたものです。この観音塔造立の目的は、刻字の一部が欠けているたま不明ですが、彫られている観音は如意輪観音で、衆生の欲望と万苦を救済する菩薩とされているものです。
 昭和56年(1981)2月15日 杉並区教育委員会
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所在地 杉並区久我山2-11

  玉川上水
 この玉川上水は、多摩川の水を江戸市中に供給するため、江戸幕府が承応2年(1653)庄右衛門・清右エ井門兄弟(後の玉川兄弟)に命じて開削させた用水路です。当時の江戸では市外の発展にともない人口が急増し水不足となったのでこの丈水路の開発が計画されたと伝えられています。
 西多摩郡羽村から四谷大木戸(新宿区内藤)まで約43キロメートルを開水路で導水し、そこから先は石管や木管によって府内に給水しました。工事はわずか1年有余というおどろくべき速さで完成しましたが、このために武蔵野一帯の農民はスキ・クワ持参でかり出され、いわゆる突貫工事を強制されたと伝えられています。また、『新編武蔵風土記稿』によれば水路は民家の敷地を横切ることも多く、当時生まれた中高井戸村(当初は高井戸新田と称した)は、立退きを命じられた上下高井戸村の農民が代替地を開発したものと伝えられています。



 玉川上水は、江戸市中への飲料水の供給という本来の目的を果たす以外に武蔵野台地の村々に分水され、飲料水・灌漑用水・水車の動力として新田開発をうながしました。分水口は、最古の野火留用水をはじめ最盛期には総数33ヵ所にものぼり、杉並区内には、下高井戸村分水・烏山村分水・上北沢分水の取水口がありました。この説明板の右手に見えるのが烏山村分水口の跡で、上北沢村分水口跡とともに区内での貴重な現存例です。



 明治31年(1898)、東京に改良水道が完成したため明治34年(1901)に廃止されましたが、水路はそのまま淀橋浄水場への導水路として近年まで使用されていました。新宿副都心計画にともなう淀橋浄水場の撤去により流路はさらに短縮され、現在は小平監視所(小平市中島町)から上流部のみを水道導水路として使用しています。
 平成10年(1998)3月 杉並区教育委員会


所在地 杉並区久我山2-16-14 (東京都太田記念館)

  向ノ原遺跡B地点
 向ノ原遺跡B地点は、武蔵野市にある井之頭池を水源とする、神田川南岸に形成された急崖な台地上に位置しています。
 当遺跡は、杉並区久我山2丁目16番を中心とした、先土器時代(約1万6千年前)から縄文時代早期後半(約8千年前)にかけての集落跡で、当遺跡の東側に隣接する向ノ原遺跡(大蔵省印刷局運動場内)と同一遺跡で、その西端をなすものと思われます。
 東京都太田記念館建設に先立ち、昭和62年(1987)から昭和63年(1988)にかけて実施された発掘調査では、先土器時代のナイフ形石器をはじめとする石器類、バーベキュー跡と考えられる拳大の石を数10個集めた礫群が7箇所発見されています。
 縄文時代では、草創期(約1万年前)の隆起線文土器と爪形文土器約30点が出土して注目されました。最古の縄文土器であるこれらの土器群は今のところ、区内はもとより武蔵野台地における当該期の資料として最大の質と量を誇っています。
 また、この他にも早期前半(約9千年前)の住居跡も6基発見されており、神田川流域の当遺跡を中心とした一帯が、区内における最古の縄文文化発祥の地点である可能性を提供した重要な遺跡であると言えます。
(なお、出土した考古遺物は、すべて杉並区立郷土博物館に展示してありますので、当記念館では見学することはできません。)
 平成3年(1991)3月 杉並区教育委員会


所在地 杉並区久我山3-37-14

  久我山稲荷神社
 



 この神社は、『新編武蔵風土記稿』多摩郡久ヶ山村の条に稲荷社とあって「除地、二段五畝十五歩、堂屋舗にあり、小社にて上屋九尺に二間、拝殿二間に三間、南向、前に鳥居を立つ、石階鳥居の外に三級内に二十級あり、村の鎮守、例祭十一月にて日定らず、光明寺の持」と記されているように、創建の由来については詳かではないが古来からの久我山村の鎮守で、祭神は保食命です。
 明治40年4月に字北原にあった天祖神社(祭神大日霎貴命)が合祀されました。
 昭和16年2月に村社となりました。
 境内末社には八雲神社・天満天神社があります。
 本社では、7月24日に夏祭りが行われ「湯の花神楽」が奉納されます。
 その昔、この地に疫病が流行した際、村人が神楽を奉納し、祈願したところ、疫病がやんだという故事によるものです。
 この湯立ては、杉並区内では極めて珍しい行事となっています。
 境内には明治32年(1899)に氏子が奉納した金玉均(朝鮮の李王朝末の政治亡命家)の手跡を刻んだ「人心同」の碑があります。
 この碑は、久我山生れで、幼くして小笠原にわたり、砂糖王と呼ばれた飯田作左衛門が、遠く離れている父に朝夕仕えることもできず、心で思うばかりである。せめて父の住むところに自分の不幸をわびる石碑を建ててくれと頼み、その心根に強く打たれた金玉均の手跡です。
 なお、元禄16年(1703)の庚申塔があります。かつて村人がこの庚申様に砧の槌を納めて養蚕の無事を祈願したと言い伝えられます。
 また、昭和57年に新築された「額堂付神楽殿」には多数の絵馬が保存されています。
  昭和58年(1983)3月 杉並区教育委員会



  湯の花神楽について
 この久我山稲荷神社には古くから7月24日に八雲大神をお祀りし、湯の花神楽を奉納して健康を祈願する夏祭が行われて参りました。これは昔此の里に疫病が流行し、多くの人が亡くなりました。困り果てた人々は氏神様に集まり御神楽を奉納し御祭を致しました所、疫病を防ぐ事が出来ました。喜んだ人々は毎年このお祭を行って参りましたが、明治20年代に一度中止した事がございます。この年再び疫病が蔓延し、驚いた人々はその後絶やす事なく此の夏祭を行って参りました。此の時行われます湯の花とは、湯立行事と申しまして、大釜に熱湯を仕立て小笹をもってその湯の滴を全身に浴し、誠心誠意を神明に誓うものでございます。古くは盟神深湯(くがだち)と申しまして、熱湯を探り正邪を神前に証した事から起ったもので御座います。尚当社では御神楽の最後に神前にお供えした御餅を撒き、此のお祭の行事を終ります。
 奉納 秦重吉



                                    天満神社・八雲神社



 久我山稲荷神社境内には『人心同の碑』、『力石』、『庚申様御祭神・猿田彦大神』があります。


所在地 杉並区久我山3-37-14 (久我山稲荷神社)

  庚申様御祭神・猿田彦大神  元禄16年(1703)祀
此処ニ御祀リシテアリマス庚申様ハ西向ノ庚申様ト申シマシテ古クヨリ遠近ノ信仰ヲ集メテ居リマシタ 中デモ砧ノ槌ヲ納メテ養蚕豊ナル事及我家ノ繁栄ヲ祈願シタ故事ハ有名デ御座イマス
此ノ故事ニ因ミマシテ現在モ正月元旦ニハ神社ニ於テ金銀ノ槌ヲ受与シ氏子ノ幸福ヲ祈ル慣ハシガ残ッテ居リマス
当庚申様ハ西向ヲ以テソノ御利益最大ト言伝ガ御座イマス

 


所在地 杉並区久我山3-37-14 (久我山稲荷神社)

  人心同の碑
 この碑は、久我山生れで、幼くして小笠原にわたり、砂糖王と呼ばれた飯田作左衛門が、遠く離れている父に朝夕仕えることもできず、心で思うばかりである。せめて父の住むところに自分の不幸をわびる石碑を建ててくれと頼み、その心根に強く打たれた金玉均の手跡です。
  昭和58年(1983)3月 杉並区教育委員会

 


所在地 杉並区久我山3-37-14 (久我山稲荷神社)

  力石
 明治、大正時代、村の若者がこれを担ぎ上げ、力を競って楽しんだものです。石の表には、その重さと担ぎ上げた人の名が刻んであります。 
古来病人ある時、これを持ち上げれば全快するとした「石占い」に由来すると云われています。
この石の重さは、120キログラム有ります。
 平成19年(2007)7月吉日 氏子一同

 


所在地 杉並区久我山4-50

 民間信仰石塔

 小堂内には、奥壁向って左から寛文5年(1665)銘庚申塔・宝永5年(1708)銘念仏供養塔・享保4年(1719)銘地蔵菩薩、寛文10年(1670)銘日侍塔、入口近くの左右に3基ずつ並んだ享保8年(1723)銘六地蔵菩薩の石塔10基が安置されています。
 これらの石塔は、銘文などから旧久我山村の各所にあったことがほぼ確認できます。



 寛文5年銘の庚申塔は、未だ青面金剛神ではなく地蔵菩薩を尊像とする比較的古い型の供養塔です。
 享保4年銘の地蔵菩薩には、茶燈料として土地を永代寄進したことが刻されており、当時の信仰の形態がうかがわれます。
 寛文10年銘の日侍塔は、聖観音菩薩を刻んでいます。日侍塔は、全国的にみても比較的少ない供養塔です。



 宝永5年銘の念仏供養塔と享保8年銘の六地蔵菩薩には、光明寺の住職と村人との騒動にまつわる供養塔であるとの伝えがありますが、定かではありません。光明寺は、この墓地の南側にありましたが、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となりました。
 この石塔群は、時代的・地域的にまとまっており、いずれも江戸時代中期の標準的な作風を残すものであり、また、当時の久我山地域の信仰形態や風俗を示すものとして貴重なものです。
  平成2年(1990)2月 杉並区教育委員会


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