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東京都杉並区の歴史
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所在地 杉並区久我山2-11

  玉川上水
 この玉川上水は、多摩川の水を江戸市中に供給するため、江戸幕府が承応2年(1653)庄右衛門・清右エ井門兄弟(後の玉川兄弟)に命じて開削させた用水路です。当時の江戸では市外の発展にともない人口が急増し水不足となったのでこの丈水路の開発が計画されたと伝えられています。
 西多摩郡羽村から四谷大木戸(新宿区内藤)まで約43キロメートルを開水路で導水し、そこから先は石管や木管によって府内に給水しました。工事はわずか1年有余というおどろくべき速さで完成しましたが、このために武蔵野一帯の農民はスキ・クワ持参でかり出され、いわゆる突貫工事を強制されたと伝えられています。また、『新編武蔵風土記稿』によれば水路は民家の敷地を横切ることも多く、当時生まれた中高井戸村(当初は高井戸新田と称した)は、立退きを命じられた上下高井戸村の農民が代替地を開発したものと伝えられています。



 玉川上水は、江戸市中への飲料水の供給という本来の目的を果たす以外に武蔵野台地の村々に分水され、飲料水・灌漑用水・水車の動力として新田開発をうながしました。分水口は、最古の野火留用水をはじめ最盛期には総数33ヵ所にものぼり、杉並区内には、下高井戸村分水・烏山村分水・上北沢分水の取水口がありました。この説明板の右手に見えるのが烏山村分水口の跡で、上北沢村分水口跡とともに区内での貴重な現存例です。



 明治31年(1898)、東京に改良水道が完成したため明治34年(1901)に廃止されましたが、水路はそのまま淀橋浄水場への導水路として近年まで使用されていました。新宿副都心計画にともなう淀橋浄水場の撤去により流路はさらに短縮され、現在は小平監視所(小平市中島町)から上流部のみを水道導水路として使用しています。
 平成10年(1998)3月 杉並区教育委員会
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